私は今、毎日がとてもつらいです。夜、布団に入っても、まぶたを閉じても、どうしても眠ることができません。眠剤を飲まなければ眠れない日が、ここずっと続いています。薬を飲んだところで、すぐに眠りにつけるわけでもなく、長い時間、ただ横になっているだけの日もあります。時計の針が進む音だけが響く静かな部屋で、眠れないまま朝を迎えるのは、本当に苦しい時間です。
薬を飲んでも収まらない鬱の苦しみ
眠れないだけでなく、薬を飲んでいても、鬱の症状が収まることはありません。いつも、つらい気持ちがずっと心にのしかかっている状態です。心が重く、鉛のように体がだるい。何をするにも億劫で、少し動くだけでも疲れてしまいます。朝、目が覚めても、ベッドから起き上がるまでに時間がかかり、日中も倦怠感が抜けません。
このつらさは、言葉で表現するのが本当に難しいです。喜びや悲しみといった明確な感情とは違い、もっと漠然とした、しかし確実に私を蝕む感覚です。説明しようとしても、適切な言葉が見つからず、周りに理解してもらうことの難しさも感じています。この、誰にも伝えきれない、分かってもらえない感覚もまた、私を深く落ち込ませる要因の一つになっているのかもしれません。
「嫌」だと感じる場所
今の自分自身の状態が「嫌」です。この苦しい状態が、いつまで続くのだろうという不安が、常に心のどこかにあります。未来を想像しようとしても、明るい光が見えず、ただこの「嫌」な感情が続いていくような気がしてしまいます。
そして、もう一つ強く感じるのは、「自分の場違い感」です。自分が今いる場所、社会の中での立ち位置、周囲の人々との関わり。どこにいても、自分だけが浮いているような、ここにいてはいけないような感覚に囚われることがあります。周りの人々が生き生きと活動しているのを見ると、なぜ自分はこんなにも動けないのだろう、こんなにも苦しいのだろうと、その場違い感が増幅されていきます。
こうした感情は、私の日常をさらに重苦しいものにしています。何をしても、どこにいても、心の奥底でこの「嫌」な気持ちと「場違い感」が付きまとうのです。
医療機関との向き合い
もちろん、この状況を改善したくて、医療機関への受診はずっと続けています。医師の先生に話を聞いてもらい、処方された薬を真面目に飲んでいます。しかし、それでもなお、眠れない夜は続き、鬱の症状が収まることはありません。薬を飲んでいるのに、なぜ良くならないのだろう、このままではどうなるのだろうという焦りや絶望感が募ることもあります。
診察室で自分の状況を話すことは、決して簡単なことではありません。言葉にならないつらさをどう伝えたらいいのか、どこまで話せば理解してもらえるのか、いつも悩みながら話しています。医療の力を借りても、なかなか出口が見えない状況は、さらなる心の負担となっているのが現状です。
わずかな安らぎと、望む未来
そんな日々の中で、唯一少しでも心が落ち着くのは、家に帰ってきて、ゆっくりと自分の好きなことをする時間です。誰にも気兼ねすることなく、自分のペースで、本当に心から楽しめることに没頭できる瞬間だけは、つらい気持ちから少しだけ解放されるような気がします。それは、人によってはごく当たり前のことかもしれませんが、私にとっては、とても大切な、限られた安らぎのひとときです。
このつらい状況から抜け出したい。私が心から望むのは、ただ一つ、「つらいと思うことが続く状況を無くしたい」ということです。毎日、心が重く、体がだるく、眠れない夜に苛まれる。この終わりの見えない苦しみから解放されたいと、強く願っています。
「無理したら死にます」
これは、私自身の心からの叫びです。今の私にとって、「無理をする」ということは、文字通り命に関わることだと感じています。頑張ろう、もっとできるはずだ、と自分を追い込もうとすればするほど、心も体も悲鳴を上げ、深い闇に引きずり込まれていくような感覚に陥ります。
この状態が続くと、本当に「死んでしまうかもしれない」という切迫した思いが頭をよぎることもあります。だからこそ、これ以上無理はできない。無理をしてはいけない。そう自分に言い聞かせながら、日々をなんとか生き抜いている状態です。この言葉は、私の限界であり、同時に、これ以上自分を追い込まないための、最後の防衛線でもあります。
このつらさは、私一人のものではありません。きっと、同じように苦しんでいる人がどこかにいるはずです。言葉にできない、分かってもらえない苦しみを抱えながら、それでも日々を生きている人がいることを、私は知っています。
このブログが、誰かの目に留まり、もしかしたら「自分だけじゃないんだ」と感じてもらえるきっかけになれば、と願うばかりです。そして、私自身も、このつらい状況がいつか終わることを信じて、無理せず、少しずつ、前を向いていきたいと思っています。